仏議 9
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大陸仏教文化の残影 〜 大分/臼杵市 臼杵石仏群 〜 |
2010年5月16日 |
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連休明けの週末、親戚の病気見舞いのため、両親と大分県へ向かう。予報では、雨天と告げられていた.天候は”連日の晴天”という形で裏切られた。見舞いを済ませ、翌日の早朝、両親とともに臼杵市へ向かう。目的は『臼杵石仏群』の場所へ行くことだった。突き抜けるような青空の中、車で移動する。山深い場所に比較的大きな駐車場が見える。まだ朝早いため、車は少ない。車をおり、磨崖仏のある方向へあるきだす。緩やかな坂道を上がると、そこには無数の磨崖仏が鎮座しておられる。磨崖仏といっても「浮き彫り」ではなく、彫像の半分以上が完成されており、岩壁に「くっついている」といった表現の方が判りやすい。今まで磨崖仏をたくさん見てきたが、その保存状態や完成度、仏の数とも圧倒しており”見事”の一言。。。『石で仏を造る』ルーツは、中国大陸や朝鮮半島にあり、仏像に限らず、寺院建築等も石で造られている事例が極めて多い。仏教が日本へ渡ってきた西暦500年代、石で構築された大陸の仏教文化は、日本の森林の多い立地や、アミニズム信仰などによって、いつしか”木”へと変換され、「木でできた構築物や仏像」が日本で主流となっていった。しかし、私が居住する滋賀県もそうだが、大陸仏教文化が入る玄関口や、その文化が都へ入っていく道すがらには、大陸仏教文化(石の文化)が日本仏教文化(木の文化)へ変換される前の表現である、『磨崖仏』が多数存在するのだ。これら『日本産の磨崖仏』を現代風に表現すると、『まるで、”海雪(演歌)”を熱唱する”ジェロ(外国人歌手)”のような・・・』となるのか。。。とにかく、日本に根差した仏教文化なのに、この石仏表現に”異国文化の風”を感じ、圧倒されてしまうのだ。・・・臼杵の石仏にはこのような物語が残っている『昔、金山を採掘し、中国と鉱物の交易していた老夫婦の娘が海難事故に遭遇し、あえなく娘は死ぬ。その死を悼んだ周りの交易者は中国から1人の僧を招致し、臼杵の地に寺院と磨崖仏を造った。』これが、現存する”臼杵石仏”であるという・・石仏群を拝見できる最後のエリア・古園石仏群は真ん中に、密教の最高神・大日如来が鎮座している。その脇を仏がかため、石で仏世界を表している。風雪に耐え、今なお現存する最高神とその仏の視線は、豊後水道に注がれている。海難で亡くした娘を思う気持ちか、大陸より渡来してきた石仏文化へ郷愁か・・その石仏の視線を私たちに考えさせながら、黙している仏は静かに威厳を放っていた。 |
高野山の浪切不動 〜 和歌山/高野町 南院 〜 |
2010年6月28日 |
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未だ梅雨が開けぬ初夏の酷暑、高野山へ向かう。高野山へは何度か巡拝経験があり、最近では、6年ほど前に奥の院へ巡拝しているが、「千寺巡礼」では、今回が初高野山巡礼となる。今回の目的は毎年6月28日にしか御開帳されない、高野山の塔頭「南院」に安置されている本尊”浪切不動明王”へ参拝することだった。奈良を南下し、和歌山・高野町へ入る。高野山の麓には、「女人高野」で有名な慈尊院や真田庵など、興味深い寺院が軒を並べていたが、時間の関係で残念ならが泣く泣くスルーし、高野山へ続く車道に車を走らせる。「もう勘弁して・・」というぐらいS字カーブを走らせ数十キロ。ようやく高野山の大きな赤い門(大門)が見える。車道でかなり山深く入ったが、高野山の入口となる大門をくぐると、起伏のゆるい地形に”街”が広がっている。そこには信号・警察・学校・食事処その他の公共施設が立ち並び、その街に違和感を感じさせないよう、塔頭寺院が林立している。ここは山全体が高野山という霊山に指定されており、山には、無数の塔頭寺院が建てられている。その塔頭に囲まれた山の象徴といえる寺院が金剛峯寺だ。とにかく、この“街”に入るまでの車道からはまるで考えられない光景。。。ここに街があるのは、何もこんな山深い人里はなれた土地に「街を作りましょう」と奇をてらって作ったわけではないだろう。きっと、ここに弘法大師・空海さまが眠る高野山・金剛峯寺があったからこそ、人々がここに住み、暮らすためのあらゆるものを都市からもってきたのだろうと容易に想像する。しかし、この高野山の街並みには我々が市街地で見る、あらゆる「公共物」などの『都市グッズ』があるのだ。おそらくこれは、絶えず多くの人が住み、絶えず多くの人が訪れるがゆえに、あらゆる「都市グッズ」が徐々に必要になったのではないかとも感じる。差し詰め、参勤交代で100万人都市となった江戸街の都市成立過程に酷似しているかのようだ。早速、駐車場へ車を止め、南院へ向かう。猛暑のうえに高い湿度で、さらにゆるい上り坂もかなり体に堪えたが、なんとか南院へ到着する。近畿36不動尊霊場の札所に指定されているこの寺院へ1度参拝しているが、ご本尊を直接拝するのはこれが初めてで、非常に緊張しながら本堂内にはいる。護摩焚きで燻された本堂内は、不動明王様の威厳の深さを、更に我々へ示している。本堂の奥の真ん中付近に1メートル程の厨子がありその扉が開いている。。厨子の中から不動明王様らしき姿がみえる、その周りには俗人が手合わせ・僧侶が経を唱えている。。皆、この不動明王様に心を動かされているのだろう。何かはわからないが、涙をながすものや必死に手を合わせている人々を見て、直観的に私がそう思うのだった。この不動明王様は通称「浪切不動明王」と言われ、空海が唐より帰国する際の航路、大浪に遭われたとき、この不動明王が浪を切り、空海の乗る舟が無事帰国の途についたという寺伝がある。以来、鎌倉時代、蒙古襲来の際には護国祈祷をしたりと、霊験高いとして有名な仏様。”ピン”と張りつめた緊張感は不動明王様の前で参拝するときによく味わう感覚だが、浪切不動明王様にはそれに加え、なにか人々を包み込むような感覚が確かにある。それは我々を大きな力で守ってくれる”威厳”と”慈愛”なのか・・・人智を超えた存在の言無きオーラに私の考えの及ぶところではないが、感動するくらい温かみのある感覚だった。。 |
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