巡礼魂!
(the sprit of pilgrimage)

仏議  4

 
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智証大師の志と観音堂の主〜 滋賀/大津市 園城寺 〜
2009年10月17日
 今回、西国霊場の本尊御開帳という大きなイベントのひとつに、園城寺観音堂の御開帳があることを聞きつけ、さっそく当寺院へ訪れました。山門をくぐると、寺域内は大木に囲まれ、静寂な中、大きな金堂が現れます。その金堂の前の道をあるくこと数十分、観音堂につながる石段が見え、上がり切ると、琵琶湖を一望できる高台に観音堂が建てられております。さっそく中に入り、御本尊に手をあわせました。逗子の中から、穏やかで威厳に満ちた尊顔が見え、いまにも動きそうな躍動感のある尊像でした。形は如意輪観音様の典型的なお姿です。 − 私の個人的な趣向ですが、この寺院は好きな寺院のひとつです。通称「三井寺」という名前で親しまれています。天台宗寺門派の総本山で、開基は7世紀にさかのぼります。何故私が、このお寺が好きなのかについては、おそらくこの寺院を中興した第5代天台座主・智証大師、円珍様が原因なのかもしれません。密教が伝来した、初期の平安時代は、弘法大師がもたらした真言宗が宗教力を強めている時代で、最澄から連なるの弟子達は、少しでも天台宗の教義を確立・拡大してこうとする「黎明期」でありました。そして、智証大師・円珍様もその中に身を投じました。積極的に経典等を中国から持帰り、宗派の発展を図る僧のなかで、円珍様も後発ながら、中国へ渡り、天台宗の発展に寄与していきました。円珍様は新たな「異国神」である”新羅大明神”を日本に迎え入れ、日本国における神仏習合に新たな信仰を積極的に導入しようとした方でもありました。その結晶が形となって、今でもこの園城寺に眠っています。私は、古式伝統を継承する受動的仏教のイメージを根底から覆す「動」の仏教の存在を私へ教えてくれたのは、智証大師でもあります。園城寺は智証大師死後、比叡山と対立し、十数回も焼かれ、豊臣時代には存続自体危険な時期もありましたが、なんとか形を変え、現在まで残っております。しかし、教義は現在になってもなお、智証大師の思いを受け継いでいるように見えます。− この寺院には祖師像たる・智証大師像(国宝)が存在します。智証大師様のお骨を入れた仏像で、幾多の災難にみまわれながら、祖師像が現存していることは、この寺院がいかに祖師への想いと志を誠実に受け止めているかがわかる一端だと考えます。〜こんなことを思いながら観音堂に立ってみると、絶景の風景も、智証大師がこの琵琶湖を『大きな国土(世界)』としてとらえ、そこの南端の高台に観音様を安置し、天台宗による平安護国の実現を果たそうとする志がこの地に漂っているような気がしてなりません。それを引き継いだ人々も、祖師の意思を時代とともに、連綿とそこへ反映してきているのだと感じるのです。だからこそ、観音様に威厳と穏やかさを垣間見るのでしょう。

葡萄のふさをもつ薬師様 〜 山梨/甲州市 大善寺 〜
2009年9月21日
 山梨県へ巡礼に行きました。本格的に山梨県を巡礼するのはこれが最初ですが、秩父巡礼をしていた3年ほど前に、秩父への通り道として、この山梨県を訪れました。通りすがりでしたが、以前に「恵林寺」や「甲斐善光寺」なんかも巡拝しました。 − この山梨県は旧国名を「甲斐国」といい、古くは武田信玄なる名将を生んだことで有名な地ですが、それ以上の知識もなく、こと寺院巡りにいたっては『甲府五山』という禅寺があることぐらいで、その存在も詳細もわからないまま山梨県を訪れました。 − 山梨巡礼の初日、私は天目山という山へ車を走らせました。途中に大きな山門が見え、そこには「大善寺」という看板が見えました。私はさっそく降車し、本堂へ参拝すべく、山門をくぐって石段を上がりました。上り切ったところにある本堂は、葺き屋根、規模は中程度の堂で、非常に古色が美しく感じました。堂の内部に入ると、中央に大な厨子が存在し、それを中心に日光・月光菩薩、十二神将が整然と横に並んでいました。白熱灯をスポットライトに使用しているようで、それがまるで、遠目からは「絵」に書かれたように二次元感が漂っていました。このような感覚に陥ったのは、奈良室生寺の金堂を参拝したとき以来です。寺院の方が本堂内の説明を開始されたので、私も拝聴しながら、正面にある仏像を眺めておりました。説明の方は、「中央の厨子には「薬師如来」様がおわし、秘仏のため、厨子が閉じられている。しかし、この薬師様はかつて、薬壺のかわりに「葡萄のふさ」をもっていた。」と話してくれました。なんでも葡萄は古来より薬用として用いられていたとのことで、このような尊像となったこと、また、この薬師信仰が起源となり、山梨で葡萄が盛んに栽培されるようになったことなどを追加で説明してくれました。聞いたとこのない新たな知識の享受に思わず感動してしまいました。 − 本堂前の寺域の隅に説明板が掲げられていました。これも寺の説明のようでした。寺院の方からさんざん説明を聞いたあとなので、重複する情報になることは覚悟のうえで、ながめました。しかし、その”予見”はあっさりと裏切られてしまいます。その説明板には、この寺院と武田勝頼との縁について記されていました。ここは、織田軍の猛攻を受けた武田勝頼が再起を求め、家臣・小山田信茂が居城・岩殿城へ向かう途上に立ち寄った寺院らしく、敗戦濃厚な武田を見限り、多くの将兵が闇夜にまぎれ逃亡した地でもありました。そういえば、この「天目山」は織田軍と武田軍の激戦地で、最後小山田が寝返ったことをしった勝頼がこの寺院を少し山へ入った地で自刃しているのを思い出しました。現在その地には景徳院という寺院が建てられ、菩提を弔っていますが、当時の勝頼がこの地で大きな挫折と絶望を味わったと容易に推測できます。死を直前にした人間の必至、絶望、挫折感と、現在の平和ボケしただ仏像鑑賞や観光巡礼のために訪れる人間の気楽さを同じ目線でに眺めていた薬師様は一体、人間というものを、どのように見ているのでしょうか?〜もし会話できるのであれば、ぜひ感想を聞きたいものです。

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