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今回、西国霊場の本尊御開帳という大きなイベントのひとつに、園城寺観音堂の御開帳があることを聞きつけ、さっそく当寺院へ訪れました。山門をくぐると、寺域内は大木に囲まれ、静寂な中、大きな金堂が現れます。その金堂の前の道をあるくこと数十分、観音堂につながる石段が見え、上がり切ると、琵琶湖を一望できる高台に観音堂が建てられております。さっそく中に入り、御本尊に手をあわせました。逗子の中から、穏やかで威厳に満ちた尊顔が見え、いまにも動きそうな躍動感のある尊像でした。形は如意輪観音様の典型的なお姿です。 − 私の個人的な趣向ですが、この寺院は好きな寺院のひとつです。通称「三井寺」という名前で親しまれています。天台宗寺門派の総本山で、開基は7世紀にさかのぼります。何故私が、このお寺が好きなのかについては、おそらくこの寺院を中興した第5代天台座主・智証大師、円珍様が原因なのかもしれません。密教が伝来した、初期の平安時代は、弘法大師がもたらした真言宗が宗教力を強めている時代で、最澄から連なるの弟子達は、少しでも天台宗の教義を確立・拡大してこうとする「黎明期」でありました。そして、智証大師・円珍様もその中に身を投じました。積極的に経典等を中国から持帰り、宗派の発展を図る僧のなかで、円珍様も後発ながら、中国へ渡り、天台宗の発展に寄与していきました。円珍様は新たな「異国神」である”新羅大明神”を日本に迎え入れ、日本国における神仏習合に新たな信仰を積極的に導入しようとした方でもありました。その結晶が形となって、今でもこの園城寺に眠っています。私は、古式伝統を継承する受動的仏教のイメージを根底から覆す「動」の仏教の存在を私へ教えてくれたのは、智証大師でもあります。園城寺は智証大師死後、比叡山と対立し、十数回も焼かれ、豊臣時代には存続自体危険な時期もありましたが、なんとか形を変え、現在まで残っております。しかし、教義は現在になってもなお、智証大師の思いを受け継いでいるように見えます。− この寺院には祖師像たる・智証大師像(国宝)が存在します。智証大師様のお骨を入れた仏像で、幾多の災難にみまわれながら、祖師像が現存していることは、この寺院がいかに祖師への想いと志を誠実に受け止めているかがわかる一端だと考えます。〜こんなことを思いながら観音堂に立ってみると、絶景の風景も、智証大師がこの琵琶湖を『大きな国土(世界)』としてとらえ、そこの南端の高台に観音様を安置し、天台宗による平安護国の実現を果たそうとする志がこの地に漂っているような気がしてなりません。それを引き継いだ人々も、祖師の意思を時代とともに、連綿とそこへ反映してきているのだと感じるのです。だからこそ、観音様に威厳と穏やかさを垣間見るのでしょう。 |