巡礼魂!
(the sprit of pilgrimage)

仏議  10


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 『上書寺院』と弥勒仏 〜奈良/葛城市 当麻寺〜
2011年6月19日
 曇天の空模様の中、後輩2名とお寺巡へ向かう。大阪府南部の某古刹を訪問したが、往時の残影はほとんどなく、建物はすっかり小さくなり新調されていた。期待を込めて訪れた3名は期待へのギャップに思わず落胆する。引率者の私としては、『後輩2名の期待を外さない、見どころのある寺院を訪れたい!』と考え、次に向かう寺院を過去に私が訪問した中から選ぶことにした。その結果、次の寺院へのアクセスへは東にそびえる二上山を越えなければならない。。。大阪と奈良県の県境に位置する”その山”(=二上山(にじょうざん・ふたかみやま)は、古来より霊山として知られており、またこの山を東西へつなぐ「竹内街道」は日本初の官道であり、何にせよ歴史深く、霊的な土地を車で通ることとなった。竹内街道を大阪府から奈良県へ向けて車を走らせる。目的の寺院は二上山の東南麓にある”当麻寺”。二上山は修験道の行場でもあり、車道もその周辺もとても険しい。。。なんとか二上山を超え、目的の当麻寺へ到着する。細く整備された参道から工事中の東門をくぐると、寺域が広がる。遠目から左側には塔がそびえ、正面には横に並んだ2つの堂とその間から、立派なお堂が奥に見える。当麻寺の創建の歴史は古く、白鳳期にさかのぼる。名刹であることと、多くの寺宝と寺伝から、多くの著名な作家は、当該寺院に関する著物を表しているので、小難しい話はそれらの本に任せるとして。。。私は自身なりに、この寺を表現することとしたい。。。当寺院に入ってみるとすぐにわかるが、寺域内の堂塔の向きが入口(東門)を無視して不規則に建てられている。東門から当麻寺にはいると、金堂と講堂の間から垂直に本堂があり、そこには今の本尊・蓮糸曼荼羅が安置されている。しかし、創建時は、金堂を中心に前面の左右に2基の三重塔が据えられ、南門を中心にまるで薬師寺のように堂塔が並んでいた。驚くことに、薬師寺のような伽藍配置は、過去の話ではなく、創建当時の三重塔や金堂・講堂は再建されながら数百年の時を超え、存在している。創建時、南方を中心としたの堂塔の配置をつくり、それから約100年後の人々は、創建時の堂塔から現在の本堂を構え、東方を中心とした寺院へ変えてしまった。まさに現代風に置き換えれば、”パソコンの上書き”に似ているので『上書き寺院』とでも称すべきか・・・。金堂には白鳳期に造られた国宝・弥勒仏様が鎮座しておられる。創建時のご本尊で、螺髪(髪の毛)がとれているものの、塑像(土)でできたその体は材質の脆さを跳ね返すほど、普遍的な尊さを放っている。人々の信仰の都合で本尊になり、本尊でなくなり・・・と振り回される弥勒様はこのような有様を受けてもなお56憶7千万年後、人々を救いに降臨していただけるのか・・その答えは56憶年後まで生きれば判るでしょう・・・注 弥勒仏・・・釈迦が亡くなられてから56憶7千万年後、世中に降臨し、仏となって人類を救うとされている。

北を護る毘沙門天 〜東京/台東区 天王寺 〜  
2011年6月29日
 かつて平安京は都に悪鬼・邪気が都へ入らないようにするため、京の北東(丑寅の方角)に『比叡山延暦寺』を、また連ねて北方から京の都へ悪鬼が侵入しないよう、「鞍馬寺」に毘沙門天を据え、鎮護国家を祈願した。毘沙門天は仏様のおわす山の四門(東西南北)のうち、北門を守護している神で、四天王の名で、『多聞天』と称されたり、また単独神として祀られる場合には毘沙門天とも称する。いずれにせよ、大切なものを護らせれば、SP以上の働きをするのが毘沙門天で、京都も北方からくる得体のしれない厄災害から毘沙門天に護衛を任せたのだ。。。時代は流れ、江戸時代。京からはるか離れた関東・江戸の地に幕府を設け、政府を構えた徳川家は、京都・平安京に倣い北東に地に寛永寺という寺院造立し、江戸に厄災来ないように鎮護国家の祈願を行った。〜ここまでは、私の知っている話であったが、最近読んだ本に『平安京の鞍馬寺にあたる北方を護る寺院』が存在していることを知った。”天王寺”という寺院で、元々日蓮宗の寺院「感応寺」だったが、江戸時代に天台宗に改宗し、改宗の折に江戸の北を護る寺院として再興されたという。祀られている毘沙門天も平安時代の仏像で、比叡山より請来したものだという。その後、天保期(1800年代)に今の寺名「天王寺」に改めたという。今年一番の酷暑、東京への出張の折、天王寺を拝観することにした。JR日暮里駅を下車し、南改札口を出て左手に少し木々が鬱蒼としている場所が天王寺である。早速、寺域内へ向かうと、そこには現代風な山門と、純和風とは言えない感じのきれいに整備された寺域が見えた。一見すると、歴史ある寺院には見えない。門をくぐり、右へ少し行ったところに古い小堂がある。薄暗い堂内の奥正面に、金で塗られた人身大の厨子とその脇には、毘沙門天の子供と妻(吉祥天)が安置されている。残念ながら、毘沙門天様がおわすであろう厨子は、秘仏のため、拝観することができなかったが、堂内の模様からはその厨子から十分に仏像の歴史の厚みを感じ取ることができた。寺院での参拝を済ませ、帰路につくため、再び山門を外くぐると、この寺院の名前が「”護国山” 天王寺」であること判る。現在の寺院からは、寺院の歴史を垣間見ることができ難いが、寺院の山号名から江戸時代に鎮護国家の祈願寺として期待された寺院であることを私に教えてくれたのだった。

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